06年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」 入江幸男
第7回講義 (May 30. 2006)
§3 「我々」の実践的知識について(つづき)
■ミニレポートの課題と回答■
先週のミニレポートの課題「我々の行為が、分業によってなされており、その際、個人の行う行為が我々の行為と規約的な関係にある場合の事例を挙げよ」
講義で説明したことだが、前々回の講義ノートに記したように、一人がポンプをおし、一人が水に毒をいれ、二人でその家の住人を毒殺するとき、この二人の行為と毒殺という行為は、因果関係にある。これに対して、婚姻届を二人で出すときに、夫になるものが名前を書くこと、妻になるものが名前を書くことは、規約によって婚姻届に署名することである。二人は、分業して、婚姻届を書き上げたことになる。
学生の回答
・(水野さん)「何人かの人がハンドベルでクリスマスソングを演奏していて、今日がクリスマスだということを忘れていた人が、それを聞いてそのことを思い出す、という場合。」演奏していた人たちは、分業で、「クリスマスソングを演奏した」といえる。また、彼が知らなかったのだが、「ある人にクリスマスを思い出させた」といえる。
・(宮川くん)「スポーツに限らず、複数人で行うゲームでは規約による分業関係が成立すると考えられる。例えば、囲碁なら、ある対局が、
私は碁盤に黒石を置いている・・・x
私は碁盤に白石を置いている・・・y
我々は囲碁をしている・・・・・・z
我々はタイトル戦を戦っている・・・z’
このとき、xとz、yとzをつなぐものは規約である。zとz’の間も規約による関係である。
xとz‘、yとz’もまた規約による関係である。
・(平野さん)規約とはルールで考えることが出来、ルールを社会的な何らかの約束にまで広げてもよいなら、社会生活全般まで集団的活動全体まで、規約による分業関係は広がるのではないでしょうか。
a 流れ作業の製品の組み立て
A、「ネジをしめている」
B、「プリント基板を置いている」
C、「バッテリーを置いている」
D、「携帯電話を組み立てている」
{入江:AとD、BとD,CとDは、因果関係ではないですか?}
b 国家を運営している
A「法律を作る」(国会)
B「法を実行する」(行政)
C「法の実行の是非を決定する」(司法)
D「(憲法という規約に基づいて)我々は国家を運営している」
AとD、BとD、CとDは規約の関係である。
・(木津くん)あるミュージシャンが、テレビ出演して歌を披露するとき、
a、私は歌を歌っている。
b、彼は楽器を演奏している
c、我々は(プロモーション活動のために)テレビに出演している。
ただし、彼らの所属事務所にはcの理由が重要であっても、出演しているミュージシャン本人は、
d、我々はより多くの人に自分たちの歌を聞いてほしいと思っている
ということもありうる。
{aとc、bとcは、因果関係ではない、しかし、規約による関係でもないように思われる。
・(野々村くん)会話が規約による分業関係になるのではないか。
a、私はしゃべっている。
b、彼は聞いている
c、我々は会話している。
aとc、bとcは、規約による関係である。
・(田邊くん)「我々」という集団は、少なくとも「私」をその構成員として含むため、「我々は○○している」は、厳密には「(私が認識する)我々(という集団)は、○○している(と私は考える)」というのが、正確であるように思うのですか・・・。
・(富永くん)死刑執行
何人かの人が、同時にボタンを押すことで死刑が執行される。
a「我々は、ボタンを押すことで、死刑を執行している」
{入江:ある人のボタンが本当のスイッチになっているとすると、そのとき、彼がボタンを押す行為は、aと因果関係にある。しかし、他の人のボタンを押す行為は、aと因果関係にはない。しかし、死刑の執行は、他の人もまたボタンを押す行為によって、行われている。このとき、他の人のボタンを押す行為は、aと規約による関係にあるといえそうである。}
・(石山くん)自動車の製造
マニュアルに基づいて、個々人が各パーツを作り、最終的に自動車が、製造される点。
{入江:パーツを作る行為と、自動車をつくる行為は、因果関係にあるのではない。それらは、手段と目的の関係にある。この手段と目的の関係は、規約による関係ではない。
aがbの手段になるとき、それが因果関係に基づく場合と、規約に基づく場合があるのではないか。}
・(有澤くん)会社設立
法律の定めに基づいて、複数で成立
・(岡辺さん)規約による分業関係
a、私は婚姻届にサインする
b、彼は婚姻届にサインする
c、我々は結婚する
これは、規約による分業かもしれない。
a、私は婚姻届にサインする
b、彼は婚姻届にサインする
c、我々は婚姻届の空白をうめた。
これは、因果関係になるような気もする。
何が規約で何が規約でないかや、因果関係の範囲をどこまでにするか、が任意で、しかも記述も任意なら、何とでもできそうな気がします。
{入江:「空白をうめる」の意味が、「空白に、求められている事柄を記入する」ならば、上の、aとc、bとcは、規約による関係になるでしょう。しかし、「空白をうめる」の意味が、「空白に、インク線を描く」を意味するならば、aとc、bとcは因果関係になるでしょう。}
・(井野くん)柔道の審判
a、審判が「待て」という
b、選手が組合を止める
c、彼らは柔道をしている。
もし審判がルール違反に対して判定を下さなければ、もしくは、もし選手が審判の制止を聞き入れなければ、それは柔道ではなく、ただの喧嘩である。
・因果関係と規約による関係は入り組んでいる。例えば、
a、手を挙げる
b、タクシーに止まれの合図をする
c、タクシーを止める
aとbは規約による関係である。bとcは因果関係である。それゆえに、aとcの関係は、規約による関係であり、また因果関係でもある。
§4 残された問題「実践的知識は観察によらない知なのか」の再検討
§2で、実践的知識が、想起によるものでないこと、推論によるものでないことは証明したが、観察によらない知であることの証明はできていなかった。これを試みよう。
1、感覚による観察によらない知であることの証明
先週の講義の後、T君と話していておもいついた論証を述べる。
「何をしているの」と問われて、コーヒーを淹れるつもりでお湯を沸かしていたとき、「何をしているの」と問われたとしよう。このとき「コーヒーを淹れているんだよ」とことができる。しかし、このとき、私が紅茶を淹れようとしてお湯を沸かす場合と、同じ今年貸していなかったとしても、私は、このように答えることが出来る。しかし、その時点では私が紅茶を淹れているのか、コ−ヒーを淹れているのか、感覚による観察によっては区別できないはずである。それにもかかわらず、即座に「コーヒーを淹れているんだよ」と答えるとすれば、これは感覚による観察によらない知である。
2、内省によらない知であることの証明の試み
(1)ロックの「内省」概念
伝統的に、観察には、感覚によるものと内省によるものが考えられてきた。ここでは、ロックの説明をもとに、それを説明する。ロックは、『人間知性論』「第二巻、観念について」「第一章、観念一般ならびにその起源について」で、感覚と内省の区別を次のように説明する。
第一節「およそ人間はすべて思考すると自ら意識するし、思考する間に心が向けられるのは心にある観念であるから、疑いもなく人々は、白さ・硬さ・甘さ・思考・運動・人間・象・集団・酔いその他のことばで表現される観念のような、いくつかの観念を心に持っている。そこで、まず探求すべきことは、人間がどのようにしてこれらの観念を得るかである」(大槻春彦訳、岩波文庫『人間知性論』第一巻p.133)
第二節「そこで、心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念は少しもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。・・・これに対して、私は一語で経験からと答える。・・・外的可感的事物について行われる観察にせよ、私たちがみずから知覚し内省する心の内的作用について行われる観察にせよ。」(同上、p.134)
第三節「第一、私たちの感官は個々の可感的対象にかかわって、それらの対象が感官を感官触発するさまざまな仕方に応じて事物のいろいろ別個な感覚を心へ伝える。・・・・私はこの原泉を感官と呼ぶ。」(同上)
第四節「第二に、経験が知性に官憲を備える他の源泉は、知性が既にえてある観念について働くとき私たちの内の私たち自身の心のいろいろな作用についての知覚である。この作用は、霊魂(たましい)が内省し考察するようになると、外の事物から得ることのできなかった他の一組の肝炎を知性に備える。それらは知覚や考えることや疑うことや信ずることや推理することや知ることや意志することであり、私たち自身の心の一切のさまざまな働きである。・・・この源泉は外的対象とすこしも関係がないから感官覚ではないが、それによく似ている。そこで、内部感官覚と呼んで十分適切だろう。しかし、私は前のを感覚と呼ぶので、これは内省と呼ぶ。」(同上、p.135)
第二巻の「第六章 内省の単純観念について」からの引用
第一節「視線を内へ自分自身に向けて自分の持つ観念について営む自分自身の作用を観察するとき、これから別の観念をえる。この観念は、外の事物から受け取った観念のどれにも劣らず、心が観想する対象であることができる。」(同上、p.174)
第二節「最も頻繁に考察されるし、きわめて頻繁なので、誰しも好めば自分自身のうちに覚知でできる、心の二つの大きな主要活動は、次の二つのである。
すなわち、
知覚いいかえれば思考すること
有意いいかえれば意志することである。
思考する力能は知性と呼ばれ、有意の力能は意志と呼ばれる。」(同上)
(2)実践的知識が、反省(内省)による観察に基づく可能性について
私が行為するとき、意図的行為の場合には、「xをしよう」という意図がある。「なにをしているの」と問われたきに、私は「xをしよう」という意図をもっていることを内省して、「私はxをしている」と答えるのではないだろうか。このとき、「xをしよう」という意図をもっていることを、私は、どのようにして知るのだろうか。ロックならば、反省(内省)によってと答えるだろう。
今仮に、<「私が「xをしよう」という意図を持っている」を、私は内省によって知る>が正しいとしよう。では、このことを私はどのようにして知るのだろうか。ロックならば、おそらく内省についての内省によって知るというだろう。
このとき、「私が「xをしよう」という意図を持っている」ことが私の知になるためには、その根拠、つまり「私はこれを内省によって知る」ということが知られていなければならないのだとすると、これは無限に反復する。それは不可能だ。
では、事実はどうなっているのだろうか
(可能性1)「私が「xをしよう」という意図をもっている」ことを、私が内省によって知ることは、もはや内省によって知られるのではなくて、直接に知られるのだろうか?(§2の8でも述べたように)もしこのような直接知を認めるのであれば、そもそも最初の「私が「xをしよう」という意図をもっている」ことについても直接知を認めてもよいかもしれない。
(可能性2)あるいは、「私が「xをしよう」という意図を持っている」ことを私が内省よって知る、と思っている(と信じている、という信念を持つ)だけで十分であって、その根拠は無用であるのか。
(可能性3)「私が「xをしよう」という意図を持っていることを、内省によって知る」は、文法的な命題である。
これらの可能性の検討はそれ自体重要なテーマであるが、我々の現在の課題にとっては、最初の仮定の吟味を優先させるべきだろう。つまり、我々は「xをしよう」というような意図を知ることによって、それからの推論によって、「私はxをしている」という実践的知識を得るのかどうかである。
例えば、何かをしようとして、居間に入ってきたときに、何をしようとしていたのかを忘れて、「何をしようとしたんかなあ?」と自問することがある。意図を思い出せないときには、何かをすることは出来ない。行為を尋ねる「なにをしているの」と、意図を尋ねる「何をしようとしているの」の関係についていえば、一方に答えられるときには、他方に答えられる。この言い換え、つまり「私はxをしている」がいえるとき、そのときに限り「私はxをしようとしている」を言えるということは、「文法」(つまり、我々の言語の用法)に基づいているといえるだろう。
(心的原因による行為の場合には、意図はないので、この言い換えは出来ない。しかし、窓から顔がぬっとあらわれたので、思わず飛び上がるときには、そもそも「私は思わず飛び上がっている」と言うことはない。それは常に事後的に「私は思わず飛び上がった」ということが出来るだけである。)
では、「何をしているの」と問われたときに、内省によって(あるいは他の仕方で)「私はxをしようとしている」を知り、次に「文法」に基づいて言い換えて、「私はxをしている」と答えるのだろうか。(どうもそうではないようが気がするが、それをどうやって証明したらよいだろうか。)
ところで、もし実践的知識がこのようにして得られるのだとすると、我々の実践的知識についてはどうなるのだろうか。「我々はxをしようとしている」を何らかの仕方で知り、「我々はxをしている」を文法に基づいて知るのだろうか。「我々はxをしようとしている」を我々は内省によって知ることは出来ない。たとえば、つい先ほど「囲碁をやろうか」と私が言って、相手が「いいね」と言って碁盤と碁石を持ってきたことの私の記憶から、私は「我々は囲碁をしようとしている」と知ることができる。しかし、このようにして、我々の意図を知ったのちに、我々の行為について知るのではないだろう。私は、相手が囲碁をしようとしていることを、むしろ相手の行為から知るのではないか。互いに石を打っているとき、私と相手は囲碁をしており、そこら相手は囲碁をしようとしていると考える(知る)のではないか。つまり、我々の実践知の場合には、我々の行為の知が、意図の知に先立つのではないか。相手の意図の想定は、我々の行為の知に先立つかもしれない。しかしそれが想定でなく、知になるのは、相手の行為を確認する(知る)ことによってであろう。ゆえに、我々の行為の知は、我々の意図の知に先立つ(あるいは同時である)。
もし、「私はサッカーをしている」と「我々はサッカーをしている」という知が、同じ仕方で知られるのだとすれば、前者が、内省による意図の観察による知であるとはいえないことになるだろう。(この証明を完全なものにするためには、一人称単数と複数の二つの実践的知識が同じ仕方で知られることを証明しなければならない。)